2015年8月10日月曜日

百葉箱って、何故、百葉箱と呼ばれるか?

百葉箱というのが、昔、小学校によくありました。何故、百葉箱と言うのか、今まで知りませんでした。中国語で、百葉窓(百叶窗または、百叶窗帘(百葉カーテン))と言うと、ブラインドのことを言います。つまり、ブラインドの羽のことを、中国人は「葉」と呼んでいて、それが何枚も重なっているのが、「百葉」なんです。小学校の百葉箱は、風通しを良くするために、斜めの羽板がいくつも重なっている扉になっています。それが、百葉窓です。

日本では、よくお風呂の窓などが、鎧戸(よろいど)になっているけど、それも、「百葉窓」と言えるわけです。

2015年2月22日日曜日

受け身を作る表現「让」、「叫」、「给」は、そもそも違うもの


」という字は、もともと、提供する、与えるという意味だった。誰かに、何かを与える。「誰かに」というのは、誰かから誰かにという方向性を持っている。

だから、その方向性だけが、独り歩きし始める。それが、「…へ」とか「…に向かって」という意味になっていく。

请给我看看」の「」の部分は、「私に何かをやらせろ」という意味。「何かをする権利を与えろ。」とも解釈できる。

请给我看看」は、「私に見させろ。」→「私が見てみる。」という意味になる。

 

」というのが、使役なのか、受け身なのかという議論をするのがそもそもおかしいのです。日本語とか、英語にマッピングするとかしようとするから、面倒くさくなる。その言葉自体を感じることが大事。

 

」は、譲(ゆずる)です。私(だれか)に、それを行う権利を譲れと言うのが元々の意味です。

それで、「…にやらせる」と言う意味になります。

 

「叫」は、「だれかを呼びつけて『やれ』と命令する」ことです。だから、「呼びつけない」場合には、使えません。

2015年2月7日土曜日

言語習得の極意:予習、復習はしてはいけない。



やっと気が付いたんだけど、(言語の)勉強って、予習も復習も要らない。と言うか、予習も復習もしてはいけない(つまり、頭を使うのを最小限にする)。先生と相対(あいたい)しているときに、すべてを吸収するように、意識を集中し、五感の耳と口を最大限に機能させる(つまり、身体をおもいっきり使う)。緊張感の中だからこそ、集中力を極大化できる。

恐らくこれって、勉強だけではなく、スポーツの習得もそうだと思う。

のらりくらりとリラックスして、予習、復習しているのでは、効果は出ない(大きくならない)。緊張の中でこそ、効果が最大化する。

真剣勝負こそ最善の策だということが、今更ながら、わかった。

 

ついでに、

ノートをとってはいけない(最小限のメモ程度なら、よし)。ノートには書かずに、その場で、瞬間に頭に焼き付けるという意識が大事。


2014年3月17日月曜日

「光」という言葉は、何故「無くなる」という意味になっていったか?


「光」は、もともとの意味は、人間が火を持ちあげているイメージの象形文字。

だから、そもそもの意味は、いわゆる「ひかり、ひかる」という意味。

それが、遮るものが無くなるとか、覆い隠すものが無くなると言う意味で、露出するという意味を持つようになり、はげ頭になる(光、光秃秃)とか、むき出しになる(光裸)という意味になっていく。

「覆い隠すものが無くなる」から、「無くなる。」という意味に変化してきた。


冗談っぽく言うと、

髪の毛が無くなるから、頭がピカピカになる。ピカピカしている頭に目を向けるか、無くなってしまった髪の毛に目を向けるかの違い。
だと思えば納得できる。

2014年2月18日火曜日

今更ながらの(中国語から学ぶ)「起承転結」の本当の意味


今更ながらの(中国語から学ぶ)「起承転結」
僕には、理解できなかった「承」が、やっとわかった。Wikipedia でさえ、超いい加減な説明をしている。
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起承転結の文章の中での使い方
は、文章の始めで単刀直入に、明確に論点あるいは論題を書くところである。
は、「責任を持って、担う。」という意味で、中心となる論点を受けて、肯定的な側面、否定的な側面を考え、自分の観点を詳しく述べる。
は、3種類の情況に分かれる:
肯定的な意見から、否定的な意見への移行、
否定的な意見から、肯定的な意見への移行、
肯定的な意見から1歩進んで更に一層深い考察をする
は、文章の全文の総括を行い、全ての論証を終える部分

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少し補足すると、“承”の真ん中の部分は、子供を示す象形文字。「承」の右側と左側は、両手で子供を抱えている。

なので、「承」は、「責任を持って、(子供を)担う。」という意味。起承転結で、一番大事な部分は「承」の部分で、「自分が責任をもって飲み込んで、こう私は思う」というのが「承」の意味です。

 

 

2013年10月18日金曜日

未必、不必、何必 の違い

「未必」は、「必定」(かならず、きっと)の否定。
必ずしも…でない。

と辞書には書いてある。でも、よく「未」の意味を考えてみると、「未」は、「未だ(まだ)、…に至っていない」という意味。
だから「未必」は、「『必要』な状態に至っていない。」という意味。
だから、「必ずしも必要ではない」と言う(部分否定的な)意味になる。

「不必」は、「必」(…しなければならない)の否定。
…する必要はない。
(これは簡単です。)

「何必」は、
「何」(何故)が付いていることもあり、疑問文に用いられる。疑問文で、「何」が付いているので(「什么」と同じように疑問詞が付いている)、「」ではなく「呢」がつく。

…する必要があるのか?(→ …しなくてもいいのではないか?)

となる。

2013年8月30日金曜日

「宁可」の本当に意味は、「…した方がいい」という意味だけなんです!


今日は、「宁可」についてです。
中日辞書には、以下のような(意味に一貫性のない)訳が載っています。

与其宁可~
…に比べたら、むしろ~


宁可也不~
むしろ…したい。~よりも


宁可…, 也要~
たとえ…しても、~をしなければならない。


いろいろな場合によって、「宁可」が、「たとえ…」と訳されたり「むしろ…」と訳されたりします。これもまた、文脈で意味を解釈する日本語の難点です。

宁可」の、「」の意味は、「安定する。安らかである」という意味です。
人間は、安定していた方が、安定していないより、いいに決まっています。

だから、「宁可…」というのは、「…した方がいい」という意味です。
「可」は、「可能性」だと思えばいいでしょう。
そうすると、上記の三つの例は、

与其宁可~
…に比べたら、~した方がいい。

宁可也不~
…した方がいい。~よりも

宁可…, 也要~
…した方がいい。~をしなければならないのなら。

どうですか?「むしろ」とか、「たとえ」とか文脈依存の尾ひれはひれがなくなり、「宁可」が一つの意味で理解できるようになりました。

これで何も怖いものがなくなります。この意味は、「むしろ…」だったかなぁ、「たとえ…」だったかなぁ、どんな場合が、どっちの意味になるんだっけなぁ、なぁんてことがなくなります。