2013年5月28日火曜日

只有…、才… を理解しよう。

「只有」の「有」は、「ある」という意味、「只」は、「ただ…」という意味で、「只有」は、「ただ、次のものがあれば、(ことは足りる)」と言っているだけ。

中国語の辞書では、「只有…、才…」は、「してこそ、初めて」と訳しているけど、そんな熟語的に覚えなくていい。
例えば、「只有这样做,才能解决问题」(こういう風にすれば、問題を解決できる。)
では、「ただ、次のものがあれば、(ことは足りる)」という前文だけで意味は成り立っている。

その次にくる文の「才」は、「やっと」という普通の意味に過ぎない。

「有」が持つ「完全に存在する」という意味を考えると、「それだけ充分揃っていて、(やっと)…できる。」という感覚になる。

片や、前回お話した、「只要…、就…」は、いろいろある条件の中で、一個でも成立していれば、「就(次の状態に近づける)」という意味だ。
これで、2つの大きな違いは理解できたかと思う。

「才」という字を完全に理解!


「才」という字は、

もともと甲骨文字です、上の横の棒は土地を表していて、次に草木の茎(新芽)に似て下の部分がちょうど土から出てくる感じ。その枝葉がまだ目を出していない様子。

この感覚が大事。




だから、この“あるまとまった時間”をイライラして待っている時間だとしたら、「才」は、「やっと」という意味になる。

待っていたお父さんが、残業していつもより遅く帰ってきたら、「あぁ、やっと帰ってきた。」となる。

「都十点半他才回来」(最初の「都」は、「已」の意味で、「もう10時半だ。やっと彼は帰ってきた。」という意味)


今まで友達と話していた時間が、この“あるまとまった時間”を示していて、友だちは帰るとする。その直後に別の友だちが来たときに言うセリフは、「Aさんは、たった今帰ったところです。」となる。「他才走(彼は、たった今日でたばかりです。)」
 

話は、変わりますが、上記の元々の意味を考えると、植物の芽が出てくるイメージなので、「才能が芽生える、才能がある」という使われ方をしはじめた。
芽が出るイメージなので、「わずかに、少し」という意味が生まれる。
道理にかなっていますね。
 

「就」を理解しよう。それから「只要…就…」を理解する。

「就」という字の原義は、「近づいていく」という意味だ。だから「就」は、「就業(仕事に近づいていく→仕事に就く)」
「就」は、「眠りに近づいていく→眠りに就く→寝る」となる。

文章が2つに分かれていて、前の文に呼応するように後ろの文に「就」が入ってくる場合がよくある。前の文が現状とか条件を表し、後ろの分の

「就」は、「そうだったら」とか、「それなら」という言葉になる。これも上記の「近づく」の感覚に非常に近い。

前の文と後ろの文が、直結する(近づいていく)訳である。

直結するから「すぐに」というニュアンスも帯びてくる。

さて話を「只要」に移そう。
「只要」は、辞書では、「ある条件さえ満たされれば、充分であることを示す。」それで意味は、「…でさえあれば、」、「…しさえすれば、」と書いてある。結果的にそういう意味でいいんだけど、字が持つ本質からもうちょっと考えてみよう。

「只要」の「要」は、“必要”という意味。「只」は、“ただ単に”という意味。
つまり、「ただ単に以下の…を必要としている。」という意味だ。

例えば、「只要不下雨,」は、“不下雨(雨が降らない)”という状態だけを必要としている。日本語が変に聞こえるだろうが、「こういう条件だけを必要としている。」というのを言い換えると「これさえ成り立てば」という日本語っぽい言いかたになる。

さて、「只要不下雨,我就去。(雨さえ降らなければ、私達は行く。)」の文章の後半に「就」が入っているけど、もうみなさんは、何故が「就」が入るかわかりますよね。前の文章を受けて「そうであるならば」という意味なんだから、中国人は、自然に「就」を使うわけです。

辞書には、「只要…就」というのが、決まり文句(熟語)のように書いてあるが、そんなことは、どうでもいい。「只要」という言葉には、「就」の感覚がぴったりくるから使うだけの話だ。

もう、みなさんは、この“ぴったり感”を肌感覚で理解しましたよね。

これで、みなさんも「就」の達人です。

2013年5月27日月曜日

数をかぞえるための「番」を理解する

辞書をみると「番」は、「ある状況を示す抽象名詞の回数」とか、書いてある。

「研究一番(一回研究してみよう)」「整理一番(一回整理をしてみよう)」「讨论一番(一回話し合ってみよう)」「调查一番(一回調査してみよう)」などと使う。

回数は回数だけど、「番」の原義は、「時間・費用・労力などを要する行為」のこと。

つまり数を数える対象は、骨の折れるお仕事を数えるために使う言葉だと考えればよい。
研究も、整理も、讨论も、调查も、全部骨の折れる仕事だよね。

さて、こういう風に理解したら、二度と忘れない。

连…都… を考えよう!

…都…」は、熟語で「すら」と覚えている人がいるかと思う。
熟語という言葉は、機械的に覚えるためのテクニックにすぎない。

」は、「連なる」という意味から派生し、「に至るまで」という意味がある。

例えば、
小孩子都明白」という中国語は、
→「小さい子供に至っても、みんな知っている。」
だから、「小さい子供ですら、みんな知っている。」という意味になる。

中国語学習では、その字が本来持つ意味をしっかり認識すれば、将来忘れてしまう暗記は必要なくなる。よね。