2013年7月28日日曜日

如果、假使、假如、即使、纵使は、ニュアンスが違うはず!


如果、假使、假如、即使、纵使は、ニュアンスが違うはず!

結論的には、すべて「もし…ならば、」という意味だと思う。 でも、敢えて意味を文字から解釈してみると、

如果:結果が、こんな感じだったとしたら、

假使:仮に、こういう風な表現を使ってみたら、

假如:仮に、こんな感じだとしたら

即使:試しにこういう風表現を使ってみたら

使:こういう使いかたを、まぁ許してあげるとしたら

(他に、假比、假若というのがありますが、覚えなくてもいいです。)

---

さて、上記の仮説の元中国人の友達に聞いてみました。

「如果」は「もしも」のような一般的な表現で、特に場面特定がないという感じ。如果你喜欢这件衣服,我可以便宜卖给你。

訳:もしあなたが、この服を気に入っているんだったら、安く売ってあげられるけど。

 

「假使」と「假如」は似ていて、「假如」の方がもっと一般的な表現で、多く使われています。両方とも「仮説」「仮定条件」を表します。

假如你两件,我可以你打7折。

訳:もしあなたが1着買うんだったら、3割引きにできるけど。

 

「即使」は訳したら「...としても」という意味だと思います。少し転折(前文と反対の意味を持たせる)のニュアンスがあるような感じ。

如果你喜欢这件衣服,可以试试看,即使不,也没有关系。

訳:もし、この服が好きだったら、着てみてください。川名育ても、別にいいから。

 

使」は訳したら「即使」のように「...としても」という訳文になるかもしれないが、許してあげようというニュアンスは確かにあります。

使他有千,但只是一个孩子,原他吧。

訳:たとえ彼が一千個の間違いをしようが、一万個の間違いをしようが、しょせんまだ子供なんだから、許してあげれば。

 

2013年7月23日火曜日

但是、可是、然而の違いって何?全部「しかし」という意味?

但是、可是、然而の違いって何?
それぞれ字が違うんだから、意味は違うはず。
「但是」は、「但」とついている以上、「ただし」という意味だ。前文ではこういっているけど、「ただしいう場合もある。」という意味になる。
「可是」は、「可」がついているのだから、前文でこうだ。「だけど、こうとも言うことができる(可能)。」という意味になるはず。
「然而」は、「而」がついているから、「もう一方では、」という意味になり、「然」は、状態を示し、「もう一方の状態では、
-----
さて、以下は、上記を踏まえて、中国人の友達に聞いた結果です。
「但是」は、「ただし」と似てて、異見や決断をハッキリ言う感じ。
虽然我很喜欢这件衣服,但是太了,是决定不了。
訳:この服とても好きなんだけど、でも高いので、買わないことにした。
 
「可是」も「しかし」、「なんだけど」という意味で、「但是」より言い方が柔らかい。 虽然我很喜欢这件衣服,可是得有点,不是不了吧。
訳:この服とても好きなんだけど、ちょっと高いんだけど、価値があまり高くないし、やっぱ、買わないことにしようっと。
 
「然而」はもっとフォーマルで、客観的にその反面を述べる感じ。 虽然我很喜欢这件衣服,然而色并不适合我,我决定不了。
訳:この服とても好きなんだけど、色が私に合わないので、買わないことに決めました。
-----
これで、感覚は、ばっちりですね。

2013年7月21日日曜日

「一陣の風」の「一陣」って何?

「一陣の風」の「一陣」って何?

僕は、この言葉に疑問を抱いたのは最近のことです。大体、武田信玄が戦場にいて、風林火山だとか言っているときに、風が吹いてきて、それを「一陣の風」と言うシーンしかイメージできませんでした。

でも、この「一陣」は、中国語で、「」であり、何かがある一定時間起きている状態を示します。
なので、「一阵风」は、あるしばらくの時間、風が吹いているという意味です。
同じく、「一雨」は、あるしばらくの時間、雨が降っているという意味です。
これを「一陣の雨」と訳す人は、少なくても最近はいないでしょう。

「一阵剧(jù tòng)は、「しばらく激痛が続いた。」という意味です。

中国語は、量詞が一杯あって覚えるのが大変と思うのは、最初からたくさんのものを見せられるからです。一つずつ意味を理解すると、こんなに面白いものはありません。
日本語は、中国語を輸入した時に、多くが抜け落ちて、断片的に吸収しているので、量詞の数が間引きされてしまいました。
まぁ、「一阵风」に関しては、「ひとしきりの風」のように訳してかまわないですね。

でも、先に投稿した「一只狗」,「一条狗」に関しては、どちらも「一匹の犬」と訳されてしまいます。
ニュアンスの違いが、無視されてしまいます。

もっと、量詞を楽しみたいものですね!

量詞の「朵(duǒ)」を考える

量詞の「朵(duǒ)」を考えます。

もともろ「朵」は、花のつぼみを指す言葉です。でも、日本人が花のつぼみとイメージしても、中国人のそれとは、違うかもしれません。

中国の典型的な花である、牡丹とか梅の花のつぼみをイメージするのが一番いいような気がします。
この写真のイメージが近いかもしれません。


で、「朵」を量詞として使って、
一朵花(一つの花)…「花一輪」と訳してはいけません。つぼみの部分、花の部分をイメージするのであって、茎などを含めてはいけません。

一朵梅花(梅の花)、一朵牡丹(牡丹の花)
という使い方になります。

さて、添付の写真を見ていただくと、おわかりのとおり、牡丹の花のつぼみは、ひとかたまりの雲の形に似ています。だから、雲を数える量詞にも使われるわけです。

一朵云(ひとかたまりの雲)
一朵白云(ひとかたまりの白い雲)

中国語の習得のこつは、中国人の持つイメージを認識することが何より大事に思います。



2013年7月20日土曜日

わかった上で量詞を覚える「把」

わかった上で量詞を覚える「把(bǎ)」

「把」という言葉は、「にぎる」とか「つかむ」という意味です。
だから、この量詞は、簡単。

包丁は、にぎるもの。だから、「一把菜刀(cài dāo:一つの包丁)」

かなづちも、にぎるもの。だから、「一把子(chuí zi:一つのかなづち)」

銃もにぎるもの。だから、「一把(qiāng:一丁の銃)」

鍵は、親指と人差し指でつかんでいるような感じではありますが、手の位置と鍵の位置を考えると、お分かりの通り、「一把匙(yào shi:一つの鍵)」です。

握り方は、ちょっと違いますが、傘もにぎります。だから、「一把(sǎn:一本の傘)」
ということです。

ただし、鍵の場合、鍵束をイメージしているときは、「一串匙」となります。「串(chuàn)」は、糸を通して数珠つなぎになっているようなものを指します。

日本語の「串」は、まっすぐですが、もともとの意味は、ひもを通して連なっているようなイメージです。

わかった上で量詞を覚える。「一只狗」と「一条狗」…一匹の犬


わかった上で量詞を覚える「一只狗」と「一条狗」

量詞というのは、日本語でもあるように一匹の馬、1頭の象のように、匹とか頭が量詞です。中国語の量詞を無理やり覚えるのは、よろしくありません。ということで、

一只狗」は「一匹の犬」、

「一条狗」も「一匹の犬」という意味です。

何が違うかというと、「只」の持つ意味と、「条」の持つ意味が全く違うんですね。そこからくるイメージがずいぶん違います。「只」は、普通に使うときは、「ただ…だけ」という意味がありますが、「ほんの少し」という意味があり、小さいというイメージがあります。だから、「一只狗」は、「一匹の犬」と言っても、「一匹の小型のかわいい犬」という感覚を持たなければなりません。

片や、「条」は細長いイメージがあるもののことを言います。「一条狗」というと、細長い感じで、どちらかというと大きめの犬をイメージします。「一条狼」は「1匹のオオカミ」です。もちろん子供のオオカミだったら、「一只狼」とするのもありです。

「一条狼」と、「条」を使うと、中国人は、恐ろしい動物というイメージを持つようです。

2013年7月16日火曜日

「虽然」の「虽」ってどういう意味?


「虽然」の「虽」ってどういう意味?

日本には無い漢字って、どうしても理解しにくいのものです。
「…とはいうものの」、「…ではあるが」という意味のことだと中日辞典には書いてあります。

もともとは、「虽」の字の右側に「隹」という字がついていました。
「虽」の上は、単純に「口」のことで下の「虫」は蛇のことです。右側にある「隹」という字は、鷹とかハヤブサのことを指します。

そしてその意味は、「鷹が蛇を捕まえて食べる。」という意味でした。言い方を変えると「鷹が急降下して、蛇を爪でつかみ、大空へ戻り、ゆっくりと食べてしまう。」という光景です。

その元の意味は、なくなってしまったのですが、「虽」の意味は、動詞として派生し「既に完了した。」とか「既に起きてしまった事実」という意味になりました。まぁ、鷹も蛇を食べ終わってしまっていますから、そういう意味に継承されたのでしょう。

そして、その動詞の「完了してしまったという」という意味が、接続詞として残り、「終わってしまったことではあるけれど、…」という意味に発展しました。

だから、「虽然」は、「終わってしまった状態ではあるが、…」というふうになったわけです。
深いですね。