2013年10月18日金曜日

未必、不必、何必 の違い

「未必」は、「必定」(かならず、きっと)の否定。
必ずしも…でない。

と辞書には書いてある。でも、よく「未」の意味を考えてみると、「未」は、「未だ(まだ)、…に至っていない」という意味。
だから「未必」は、「『必要』な状態に至っていない。」という意味。
だから、「必ずしも必要ではない」と言う(部分否定的な)意味になる。

「不必」は、「必」(…しなければならない)の否定。
…する必要はない。
(これは簡単です。)

「何必」は、
「何」(何故)が付いていることもあり、疑問文に用いられる。疑問文で、「何」が付いているので(「什么」と同じように疑問詞が付いている)、「」ではなく「呢」がつく。

…する必要があるのか?(→ …しなくてもいいのではないか?)

となる。

2013年8月30日金曜日

「宁可」の本当に意味は、「…した方がいい」という意味だけなんです!


今日は、「宁可」についてです。
中日辞書には、以下のような(意味に一貫性のない)訳が載っています。

与其宁可~
…に比べたら、むしろ~


宁可也不~
むしろ…したい。~よりも


宁可…, 也要~
たとえ…しても、~をしなければならない。


いろいろな場合によって、「宁可」が、「たとえ…」と訳されたり「むしろ…」と訳されたりします。これもまた、文脈で意味を解釈する日本語の難点です。

宁可」の、「」の意味は、「安定する。安らかである」という意味です。
人間は、安定していた方が、安定していないより、いいに決まっています。

だから、「宁可…」というのは、「…した方がいい」という意味です。
「可」は、「可能性」だと思えばいいでしょう。
そうすると、上記の三つの例は、

与其宁可~
…に比べたら、~した方がいい。

宁可也不~
…した方がいい。~よりも

宁可…, 也要~
…した方がいい。~をしなければならないのなら。

どうですか?「むしろ」とか、「たとえ」とか文脈依存の尾ひれはひれがなくなり、「宁可」が一つの意味で理解できるようになりました。

これで何も怖いものがなくなります。この意味は、「むしろ…」だったかなぁ、「たとえ…」だったかなぁ、どんな場合が、どっちの意味になるんだっけなぁ、なぁんてことがなくなります。

2013年8月28日水曜日

与其 A… 不如 B…の研究


「与其 A… 不如 B…」という表現があります。

「与其」の意味は、「それ(其)」と「と(与)」なので、単純に「それと」という意味です。

つまり、「Aと」→ Aを何かと比較したい気持ちになっているので、「Aと(与其 A)」という言い方をまずして、比較対象を特定する。

後半の文章が言いたいんです。


「不如 B」は、…Bには及ばない(…のようではない→には及ばない)という意味で、比較したい気持ちで、結果的には、「こっちがいい」という表現です。


単純に言うと「意味はAと(比べると)、Bの方がいい。」となります。

初級者であれば、これは、無理やりイディオムとして覚えればいいのですが、もともとの言語の成り立ちを考えると「与其」は、単純に話したい対象を指し、「それと」もしくは「それは」という意味にしか過ぎない。

中国人は、一気に、「与其 A… 不如 B…」→「…と比べれば、…の方がまし。ずっといい。」みたいに使います。

中日辞書には「…より」なんて、比較を意味するような日本語が訳としてついているけど、「…より」という意味は、「与其」には、実は入っていません。

「…と(与其)」という意味から、自然発生的に出てくるのが「比較」の感覚です。
どうでしょうか?
 

2013年7月28日日曜日

如果、假使、假如、即使、纵使は、ニュアンスが違うはず!


如果、假使、假如、即使、纵使は、ニュアンスが違うはず!

結論的には、すべて「もし…ならば、」という意味だと思う。 でも、敢えて意味を文字から解釈してみると、

如果:結果が、こんな感じだったとしたら、

假使:仮に、こういう風な表現を使ってみたら、

假如:仮に、こんな感じだとしたら

即使:試しにこういう風表現を使ってみたら

使:こういう使いかたを、まぁ許してあげるとしたら

(他に、假比、假若というのがありますが、覚えなくてもいいです。)

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さて、上記の仮説の元中国人の友達に聞いてみました。

「如果」は「もしも」のような一般的な表現で、特に場面特定がないという感じ。如果你喜欢这件衣服,我可以便宜卖给你。

訳:もしあなたが、この服を気に入っているんだったら、安く売ってあげられるけど。

 

「假使」と「假如」は似ていて、「假如」の方がもっと一般的な表現で、多く使われています。両方とも「仮説」「仮定条件」を表します。

假如你两件,我可以你打7折。

訳:もしあなたが1着買うんだったら、3割引きにできるけど。

 

「即使」は訳したら「...としても」という意味だと思います。少し転折(前文と反対の意味を持たせる)のニュアンスがあるような感じ。

如果你喜欢这件衣服,可以试试看,即使不,也没有关系。

訳:もし、この服が好きだったら、着てみてください。川名育ても、別にいいから。

 

使」は訳したら「即使」のように「...としても」という訳文になるかもしれないが、許してあげようというニュアンスは確かにあります。

使他有千,但只是一个孩子,原他吧。

訳:たとえ彼が一千個の間違いをしようが、一万個の間違いをしようが、しょせんまだ子供なんだから、許してあげれば。

 

2013年7月23日火曜日

但是、可是、然而の違いって何?全部「しかし」という意味?

但是、可是、然而の違いって何?
それぞれ字が違うんだから、意味は違うはず。
「但是」は、「但」とついている以上、「ただし」という意味だ。前文ではこういっているけど、「ただしいう場合もある。」という意味になる。
「可是」は、「可」がついているのだから、前文でこうだ。「だけど、こうとも言うことができる(可能)。」という意味になるはず。
「然而」は、「而」がついているから、「もう一方では、」という意味になり、「然」は、状態を示し、「もう一方の状態では、
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さて、以下は、上記を踏まえて、中国人の友達に聞いた結果です。
「但是」は、「ただし」と似てて、異見や決断をハッキリ言う感じ。
虽然我很喜欢这件衣服,但是太了,是决定不了。
訳:この服とても好きなんだけど、でも高いので、買わないことにした。
 
「可是」も「しかし」、「なんだけど」という意味で、「但是」より言い方が柔らかい。 虽然我很喜欢这件衣服,可是得有点,不是不了吧。
訳:この服とても好きなんだけど、ちょっと高いんだけど、価値があまり高くないし、やっぱ、買わないことにしようっと。
 
「然而」はもっとフォーマルで、客観的にその反面を述べる感じ。 虽然我很喜欢这件衣服,然而色并不适合我,我决定不了。
訳:この服とても好きなんだけど、色が私に合わないので、買わないことに決めました。
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これで、感覚は、ばっちりですね。

2013年7月21日日曜日

「一陣の風」の「一陣」って何?

「一陣の風」の「一陣」って何?

僕は、この言葉に疑問を抱いたのは最近のことです。大体、武田信玄が戦場にいて、風林火山だとか言っているときに、風が吹いてきて、それを「一陣の風」と言うシーンしかイメージできませんでした。

でも、この「一陣」は、中国語で、「」であり、何かがある一定時間起きている状態を示します。
なので、「一阵风」は、あるしばらくの時間、風が吹いているという意味です。
同じく、「一雨」は、あるしばらくの時間、雨が降っているという意味です。
これを「一陣の雨」と訳す人は、少なくても最近はいないでしょう。

「一阵剧(jù tòng)は、「しばらく激痛が続いた。」という意味です。

中国語は、量詞が一杯あって覚えるのが大変と思うのは、最初からたくさんのものを見せられるからです。一つずつ意味を理解すると、こんなに面白いものはありません。
日本語は、中国語を輸入した時に、多くが抜け落ちて、断片的に吸収しているので、量詞の数が間引きされてしまいました。
まぁ、「一阵风」に関しては、「ひとしきりの風」のように訳してかまわないですね。

でも、先に投稿した「一只狗」,「一条狗」に関しては、どちらも「一匹の犬」と訳されてしまいます。
ニュアンスの違いが、無視されてしまいます。

もっと、量詞を楽しみたいものですね!

量詞の「朵(duǒ)」を考える

量詞の「朵(duǒ)」を考えます。

もともろ「朵」は、花のつぼみを指す言葉です。でも、日本人が花のつぼみとイメージしても、中国人のそれとは、違うかもしれません。

中国の典型的な花である、牡丹とか梅の花のつぼみをイメージするのが一番いいような気がします。
この写真のイメージが近いかもしれません。


で、「朵」を量詞として使って、
一朵花(一つの花)…「花一輪」と訳してはいけません。つぼみの部分、花の部分をイメージするのであって、茎などを含めてはいけません。

一朵梅花(梅の花)、一朵牡丹(牡丹の花)
という使い方になります。

さて、添付の写真を見ていただくと、おわかりのとおり、牡丹の花のつぼみは、ひとかたまりの雲の形に似ています。だから、雲を数える量詞にも使われるわけです。

一朵云(ひとかたまりの雲)
一朵白云(ひとかたまりの白い雲)

中国語の習得のこつは、中国人の持つイメージを認識することが何より大事に思います。



2013年7月20日土曜日

わかった上で量詞を覚える「把」

わかった上で量詞を覚える「把(bǎ)」

「把」という言葉は、「にぎる」とか「つかむ」という意味です。
だから、この量詞は、簡単。

包丁は、にぎるもの。だから、「一把菜刀(cài dāo:一つの包丁)」

かなづちも、にぎるもの。だから、「一把子(chuí zi:一つのかなづち)」

銃もにぎるもの。だから、「一把(qiāng:一丁の銃)」

鍵は、親指と人差し指でつかんでいるような感じではありますが、手の位置と鍵の位置を考えると、お分かりの通り、「一把匙(yào shi:一つの鍵)」です。

握り方は、ちょっと違いますが、傘もにぎります。だから、「一把(sǎn:一本の傘)」
ということです。

ただし、鍵の場合、鍵束をイメージしているときは、「一串匙」となります。「串(chuàn)」は、糸を通して数珠つなぎになっているようなものを指します。

日本語の「串」は、まっすぐですが、もともとの意味は、ひもを通して連なっているようなイメージです。

わかった上で量詞を覚える。「一只狗」と「一条狗」…一匹の犬


わかった上で量詞を覚える「一只狗」と「一条狗」

量詞というのは、日本語でもあるように一匹の馬、1頭の象のように、匹とか頭が量詞です。中国語の量詞を無理やり覚えるのは、よろしくありません。ということで、

一只狗」は「一匹の犬」、

「一条狗」も「一匹の犬」という意味です。

何が違うかというと、「只」の持つ意味と、「条」の持つ意味が全く違うんですね。そこからくるイメージがずいぶん違います。「只」は、普通に使うときは、「ただ…だけ」という意味がありますが、「ほんの少し」という意味があり、小さいというイメージがあります。だから、「一只狗」は、「一匹の犬」と言っても、「一匹の小型のかわいい犬」という感覚を持たなければなりません。

片や、「条」は細長いイメージがあるもののことを言います。「一条狗」というと、細長い感じで、どちらかというと大きめの犬をイメージします。「一条狼」は「1匹のオオカミ」です。もちろん子供のオオカミだったら、「一只狼」とするのもありです。

「一条狼」と、「条」を使うと、中国人は、恐ろしい動物というイメージを持つようです。

2013年7月16日火曜日

「虽然」の「虽」ってどういう意味?


「虽然」の「虽」ってどういう意味?

日本には無い漢字って、どうしても理解しにくいのものです。
「…とはいうものの」、「…ではあるが」という意味のことだと中日辞典には書いてあります。

もともとは、「虽」の字の右側に「隹」という字がついていました。
「虽」の上は、単純に「口」のことで下の「虫」は蛇のことです。右側にある「隹」という字は、鷹とかハヤブサのことを指します。

そしてその意味は、「鷹が蛇を捕まえて食べる。」という意味でした。言い方を変えると「鷹が急降下して、蛇を爪でつかみ、大空へ戻り、ゆっくりと食べてしまう。」という光景です。

その元の意味は、なくなってしまったのですが、「虽」の意味は、動詞として派生し「既に完了した。」とか「既に起きてしまった事実」という意味になりました。まぁ、鷹も蛇を食べ終わってしまっていますから、そういう意味に継承されたのでしょう。

そして、その動詞の「完了してしまったという」という意味が、接続詞として残り、「終わってしまったことではあるけれど、…」という意味に発展しました。

だから、「虽然」は、「終わってしまった状態ではあるが、…」というふうになったわけです。
深いですね。

2013年6月12日水曜日

アスペクト助詞...「動作状態助詞」と覚えればいい

日本人を悩ます変な文法用語アスペクト助詞

日本人の中国語学習者を悩ませる言葉として「アスペクト助詞」というのがあります。中国語で中国人が書いた文法書では、「動態助詞」という漢字が使われている。中国人が自分たちの中国語の文法を、外国人向けに英語で表している本だと「動態助詞」は、「auxiliary word(補助的な言葉)」などと訳されています。アメリカ人が書いた中国語の文法の解説だと、「aspect suffixes(状態を表す接尾辞)」などとなっています。
 
「動態」という言葉なので、「動作とか状態に関係する助詞である。」と、簡単に言ってくれれば多くの日本人は理解できる。


アメリカ人にとっては、「動態」を一番言い表現で訳すと「aspect」になる。アメリカ人が中国語を学ぶのなら「アスペクト」という言葉は自然に頭に入る。


再度言います。「アスペクト助詞」というのは、「動作とか状態に関係する助詞」のことです。

中国人が使っている「動態助詞」という表現の方が、100倍、まともですね。いっそのこと「動作状態助詞」と言った方が、中国語学習者のつまらないことに悩む膨大な時間を節約してあげられるかもしれない。

“A 不如 B” を考える。

“A 不如 B” を考える。

「如」は、「の如(ごと)し」という意味だから、に似ているというのが根本の意味です。
そうすると
「不如」は、には似ていない。それが、(日本語でも、よくあることですが、)程度の比較の意味を持ち、ほどではない」という意味に発展します。
“A
不如B”の形では、Aは、Bには及ばない。Bの方がいいという意味になります。
「百不如一」(百聞は一見にしかず)では、日本語的な書き方をすると「百回聞くより、一回見た方がいい。」という意味になるわけです。

でも中国人の頭の中では、「百回聞くことは、一回見ることに及ばない。」と考えます。

最初に口にしたもの(百回聞くこと)は、次に口にすること(一回見ること)に及ばない。

と頭は、時間の流れに沿って考えます。

こんな考え方をすると、「不如」がとても身近に感じませんか?

2013年6月10日月曜日

「而」の意味

「而」の意味

而というのは、甲骨文(中国の亀の甲羅とか獣の骨に刻んだ文字:原始文字)の頃からあって、象形文字としては、上の一本の横棒が上唇を示し、したの部分がひげを表している。

このイメージが、発展して、一人称(自分)と二人称(あなた)と三人称(彼/彼女)を分ける際の、二人称(あなた)の意味で使われ始めた。

この自分と他者を区別するための関係性を示した言葉であることから、こちらとあちらという関係を示すために使われ始めた。

中国語の辞書には、大体、接続詞としての説明しか載っていないが、もともと何らかの関係を示す言葉であったことがわかっていると、「而且(その上)…」と「前文に対比して、後続の文はどうなんだ?」のような意味を持ち始めるのにも、何となく納得感が出てくる。

何でこの字が生まれたかを忘れて、現在使っている用法から字の意味を理解するのは、本質的な意味をわからずして、表面だけをなぞって、文脈からの類推によって、理解しようとする行為であり、非常に苦しい暗記だけの勉強に近いものがある。
この原義がわかっていれば、もやもや感はなくなるのですが、みなさんは、どうお感じになられますか?

2013年5月28日火曜日

只有…、才… を理解しよう。

「只有」の「有」は、「ある」という意味、「只」は、「ただ…」という意味で、「只有」は、「ただ、次のものがあれば、(ことは足りる)」と言っているだけ。

中国語の辞書では、「只有…、才…」は、「してこそ、初めて」と訳しているけど、そんな熟語的に覚えなくていい。
例えば、「只有这样做,才能解决问题」(こういう風にすれば、問題を解決できる。)
では、「ただ、次のものがあれば、(ことは足りる)」という前文だけで意味は成り立っている。

その次にくる文の「才」は、「やっと」という普通の意味に過ぎない。

「有」が持つ「完全に存在する」という意味を考えると、「それだけ充分揃っていて、(やっと)…できる。」という感覚になる。

片や、前回お話した、「只要…、就…」は、いろいろある条件の中で、一個でも成立していれば、「就(次の状態に近づける)」という意味だ。
これで、2つの大きな違いは理解できたかと思う。

「才」という字を完全に理解!


「才」という字は、

もともと甲骨文字です、上の横の棒は土地を表していて、次に草木の茎(新芽)に似て下の部分がちょうど土から出てくる感じ。その枝葉がまだ目を出していない様子。

この感覚が大事。




だから、この“あるまとまった時間”をイライラして待っている時間だとしたら、「才」は、「やっと」という意味になる。

待っていたお父さんが、残業していつもより遅く帰ってきたら、「あぁ、やっと帰ってきた。」となる。

「都十点半他才回来」(最初の「都」は、「已」の意味で、「もう10時半だ。やっと彼は帰ってきた。」という意味)


今まで友達と話していた時間が、この“あるまとまった時間”を示していて、友だちは帰るとする。その直後に別の友だちが来たときに言うセリフは、「Aさんは、たった今帰ったところです。」となる。「他才走(彼は、たった今日でたばかりです。)」
 

話は、変わりますが、上記の元々の意味を考えると、植物の芽が出てくるイメージなので、「才能が芽生える、才能がある」という使われ方をしはじめた。
芽が出るイメージなので、「わずかに、少し」という意味が生まれる。
道理にかなっていますね。
 

「就」を理解しよう。それから「只要…就…」を理解する。

「就」という字の原義は、「近づいていく」という意味だ。だから「就」は、「就業(仕事に近づいていく→仕事に就く)」
「就」は、「眠りに近づいていく→眠りに就く→寝る」となる。

文章が2つに分かれていて、前の文に呼応するように後ろの文に「就」が入ってくる場合がよくある。前の文が現状とか条件を表し、後ろの分の

「就」は、「そうだったら」とか、「それなら」という言葉になる。これも上記の「近づく」の感覚に非常に近い。

前の文と後ろの文が、直結する(近づいていく)訳である。

直結するから「すぐに」というニュアンスも帯びてくる。

さて話を「只要」に移そう。
「只要」は、辞書では、「ある条件さえ満たされれば、充分であることを示す。」それで意味は、「…でさえあれば、」、「…しさえすれば、」と書いてある。結果的にそういう意味でいいんだけど、字が持つ本質からもうちょっと考えてみよう。

「只要」の「要」は、“必要”という意味。「只」は、“ただ単に”という意味。
つまり、「ただ単に以下の…を必要としている。」という意味だ。

例えば、「只要不下雨,」は、“不下雨(雨が降らない)”という状態だけを必要としている。日本語が変に聞こえるだろうが、「こういう条件だけを必要としている。」というのを言い換えると「これさえ成り立てば」という日本語っぽい言いかたになる。

さて、「只要不下雨,我就去。(雨さえ降らなければ、私達は行く。)」の文章の後半に「就」が入っているけど、もうみなさんは、何故が「就」が入るかわかりますよね。前の文章を受けて「そうであるならば」という意味なんだから、中国人は、自然に「就」を使うわけです。

辞書には、「只要…就」というのが、決まり文句(熟語)のように書いてあるが、そんなことは、どうでもいい。「只要」という言葉には、「就」の感覚がぴったりくるから使うだけの話だ。

もう、みなさんは、この“ぴったり感”を肌感覚で理解しましたよね。

これで、みなさんも「就」の達人です。